今回は、開館五十周年を記念して、里代持参と伝えられている婚礼道具をメインにして展示します。 伝里代持参の道具類は、最近では部分的に展示してきましたが、今回は一式全てを展示し、それに加えて、他の奥様持参の道具と、三井家で制作されたと思われる着物三点を展示します。 さらに、黒江屋製造の秩父宮妃殿下旧蔵の雛道具を初公開します。
伝里代持参の婚礼道具は、町人の婚礼道具の珍しい例としてよく知られています。 しかし、里代持参ということは伝承に過ぎず、証拠となる文書などは見つかっていません。 里代が、那波家から柏原家四代目に嫁いで来られたのは十八世紀初頭ですので、婚礼道具もその頃のものとなりますが、以前から、早過ぎるのではという意見が出されています。 確かに、鏡(写真3)の背面に施された蓬莱模様は十八世紀初頭のものとするには早すぎるようです。 鏡には「河上山城守宗次」という銘があります。延享二年(1745)版『京羽二重』の「鏡師」の項に載る「蛸薬師烏丸西へ入町 河上山城」の可能性があります。 明和五年(1768)版と天明四年(1784)版に載る同住所の「河上山城掾」は後継者と思われます。
香筋立(きょうじたて)(写真6)に那波家の家紋・丸に角立(すみたて)四ツ目菱とともに柏原家の家紋・丸に三つ柏の紋が彫られていて(写真7)、那波家から柏原家の嫁入りの持参品であることはほぼ確かです。実は、那波家から柏原家へ嫁いできたのは、里代だけではありません。 延享五年(1748)に、那波家の娘・喜勢が柏原家の五代目主人の後妻とし嫁入りしています。喜勢は初め岸部家に嫁いでいましたが、なぜか那波家に戻っていました。薬箪笥の中の棹秤のケースの裏には、「岸部」という墨書(写真8)があり、喜勢が使っていたものと思われます。 喜勢が使っていたものが混じっているということは、この婚礼調度は、喜勢が持参してきたものかもしれません。なぜ大半の道具が使用されていないかなど疑問は残りますが、持参者の候補としては、里代よりも、喜勢の可能性が大きいように思われます。
写真9
写真10
今回、ほぼ一式の雛道具(写真9)を初公開します。この雛道具には、冠棚があるように、貴族の婚礼道具をモデルにしているようです。 それぞれの道具は木箱に納められていますが、「勢津子」という署名が墨書きされています。(写真10) 「勢津子」とは、秩父宮妃殿下(1909-1995)のことで、この雛道具は昭和三年(1928)の輿入れに際して作られたものと推定されています。 木箱の題箋には「黒江屋製」の印章(写真10)が押されていますが、この黒江屋とは柏原家が経営する東京日本橋の黒江屋のことです。
今回展示する着物三点のうち二点は三井家ゆかりのものですが、この小袖も(写真11)三井家で作られたものと思われます。 絖地に墨で藪柑子を描き、まわりにわずかに薄青を施し、赤い実は刺繍されています。落款には「呉春」とあり、四条派の祖・呉春の直筆です。 呉春などの絵描きが三井家で着物に絵を描いていたことが知られていますので、この小袖も三井家で描かれた可能性があります。 呉春の落款は寛政時代初期のもので、応挙に影響された画風に変わり始めた頃の作品です。