写真3 二階の展示
〈応挙の日記〉
現在は小屏風に貼られていますが、元は二冊の袋とじの冊子であったはずです。切り離された頁を右上から左に向かって並べられていて、天明八年朔日から寛政二年九月六日まで、日付は、一日欠けている以外、連続しています。内容は制作日誌というべきもので、依頼者の名前、画題、形状、画料などが記録されています。金刀比羅宮客殿の虎図襖絵の一部が天明八年八月に描き改められたこと、同じ八月に、松平定信に依頼されて妙心寺の伝牧谿筆布袋図を模写したこと(写真4)、大乗寺の芭蕉の間の襖絵が寛政二年一月から四月にかけて描かれたこと(写真5)、など興味深い記述もあります。
写真5 応挙日記 寛政二年一月
〈応挙の写生図〉
日記が貼られた小屏風一隻と対になる一隻には、十二枚の写生図が貼られています。署名も印章もありませんが、記入された文字の特徴、そして写生のレベルの高さから、応挙筆と考えて問題ないと思います。全て同じ時期のものと思われ、一枚には「天明乙巳」(1785)(写真6)の年紀があり、応挙四十三歳の時の写生図です。応挙の写生図は、いくつか知られていますが、それらと比べて、この写生図には技法を示す文字が全くありません。技法を示す文字は、弟子たちが模写して学習するためのものですので、この写生図は応挙の手元を離れていなかったのではと思われます。描かれているのは全て植物で、それも身近にあるものものが多く、水菜やダイコン(写真7)なども写されています。奇想を好まない応挙の性格がよく表われています。技法的には輪郭線をほとんど使っていないのが目立ちます。「ククリ(輪郭線)少なきよし」(『萬誌』)と自ら語っていた応挙は、輪郭線が写実の邪魔になることを知っていたようです。この写生図では、その傾向がピークに達していて、ほとんど形が把握できないものもあります。
写真7
〈応挙の小襖絵〉
座敷の襖は、普段は無地のものがはめられていますが、慶弔の儀式には絵が描かれたものが使われます。床の間の横の小襖六枚には応挙の稚松図、仏壇前の四枚、東側の四枚には呉春の山水図が描かれています。東側四枚の裏には呉春の芙蓉に鴨図が描かれていますが、その部屋の他の襖にも呉春の絵が描かれていたはずです。これらの襖絵は、様式から判断して、天明末年の作と推定されています。天明八年二月晦日に行われた柏原家初代の百回忌のために、前年中に制作されたものと思われます。天明八年正月晦日に、京都は大火に襲われましたが、当館のある柏原邸は類焼を免れ、百回忌も、ひっそりと行われました。呉春の山水図は四場面に分れていて、東南から春、夏、秋、冬の山水図となっています。応挙の小襖は西北に位置して、季節は冬となり、雪地に稚松が描かれていて、春の再生が表現されているようです。
写真8 座敷にはめられた状態の襖絵。応挙絵の小襖六枚、呉春絵の二枚を展示室に展示