漆器の上手な使い方をご紹介
Q : 漆器のお手入れ方法‥‥
A : お手入れは簡単です。湯に長く浸けっ放しにせず、水かぬるま湯で手早く洗います。洗剤は使用できます。
そしてぬるいお湯で湯通しします、自然に水気が切れますので、その後乾いた柔らかいフキンで拭いて下さい。
Q : 漆器の臭いの取り方‥‥
A : 漆は天然の塗料の為同じ条件で塗られてもひとつひとつ乾燥の条件が違います。
風通しの良い室内の直射日光の当たらない場所に1週間程度置くか、2〜3回ぬるま湯で
湯通ししますと効果的です。
注意・・・米櫃にての匂い抜きは、お米に匂いがうつるため避けてください。
Q : 漆器の嫌うもの‥‥
A : タワシ、磨き粉、直射日光・乾燥・冷暖房器具のそば・極端に温度湿度の
高い場所・100度を超える料理等。
Q : 絶対に避けていただきたいこと‥‥
A : 直火、電子レンジ、オープン等での使用はしないでください。火災の危険があります。
食器洗浄器、食器乾燥機、冷蔵庫での使用は木地を狂わせ、変色することもありますので避けてください。
但し、食洗器・電子レンジ耐用の記載のある商品は大丈夫です。
Q : 漆器の花生けの取り扱い方‥‥
A : 花瓶の中の落とし金に水を長く入れっぱなしにしておきますと、中の水がくさり落とし金に穴をあけ水漏れの原因になりますので、水はこまめに取り替えてください。
Q : 重箱、屠蘇器など年に数回しか使わないもの‥‥
A : 正月しか出さないご家庭もありますが、収納しておいた漆器にいきなり熱い料理などを盛ると、その部分の塗りが落ちたり剥がれたりする事があります。
普段使っていない漆器を使う場合、ぬるま湯にしばらく浸けて、柔らかい布で水分を拭きとってからから使いましょう。
 ※漆器は生きておりますのであまりに長期間収納していると乾燥して痛んでしまいます。時々水分を吸わせて陰干しする事で長持ちします。

製品本来の用途、使用目的に添って正しくお使いください。
誤ったご使用は製品の破損や身体に危険を及ぼす場合があります。体質により、極稀に漆等の塗料でかぶれることがあります。
異状を感じたときはご使用をお止めいただき専門医にご相談ください。

漆器は本来丈夫で耐久性にすぐれたものです。しかし、いくら丈夫でも扱い方を間違えていると思わぬ故障の原因となってしまいます。
また、「漆器は好きだけれど扱いが大変で面倒だ」との声をよく聞きます。しかし、基本的な扱い方さえ守ってくだされば漆器の扱いは決して面倒ではありません。
むしろデリケートな陶器や薄いガラス器に比べて、漆器は丈夫、気軽に扱うことができます。基本は人の肌と同じように、無理なく自然に扱うこと。
人の肌の苦手なことは、漆の肌も苦手です。
Q : 漆器の苦手なこと
A : ● 漆は強い紫外線が苦手です。屋外や陽のあたる場所に長時間放置するのは避けてください。
● 薬品には強いけれど・・・お酒をこぼしてそのままにしておくと色が変わることがあります。その日のうちに洗えば大丈夫。
● 陶磁器とは重ねないで。焼き物の底で漆器を傷つけてしまいます。重ねるときは漆器を上に。
● 電子レンジは禁物です。電磁波をとおすと漆器は焦げてしまいます。
● 食器洗浄器や食器乾燥機など熱湯や熱風がでるもののご使用は慎重に。
● 火に触れればヤケドします。漆器は比較的熱に強い素材ですが、高熱にあたれば焦げます。
Q : 漆器の取り扱い方
A :

漆器に添付されている取扱声明書には「漆器は、柔らかな布を使ってぬるま湯で洗い、すぐに乾いた布で水分をふき取ってください」と書かれております。確かにその通りですが、これは年に数回位しか使わない漆器に対する保存方法です。日常使いの漆器製品(椀・盆・皿・箸など)は、それほど気を使うことはありません。
時々、椀や皿に食べ物やご飯がついてしまう場合がありますが、洗う前に椀の中に水をはるか、水に少しつけておけば何の問題もありません。
その程度ですぐに漆が剥がれてしまう漆器はどこかで手を抜いて作られた塗物です。しっかり乾燥した木材を使い、確かな技術と本漆で制作された漆器なら簡単に剥がれたり壊れたりしないものです。しかし、使用後、何時間も水につけっぱなしにして良いと言うものでもありません。急な用事で出かける場合などはとりあえず洗っておきましょう。そのまま乾いた場合、水滴の跡が残りますが品質上は問題ありません。
漆器は昔から高価なもので、丁寧に取り扱われてきたことは事実です。それは、弱いわけではありません。
だれでも大切なものは丁寧に扱うのは当然なのです。柔らかな布やスポンジなどで、薄めた中性洗剤で洗った後、布でふきあげれば大丈夫です。
これを怠り、長い期間しまっておきますと、カビの原因になります。もし、カビが生えていた場合は、消毒用アルコールを含ませた柔らかな布で拭き取ってから洗い直せばきれいになります。カビの生えた状態で何年も放置しておきますと、カビ根が塗膜に食いついて取れにくくなってしまうので要注意です。
漆は「自然からの贈り物」安全で安心して使用できる現代にふさわしいものです。

Q : 漆器の保管のしかた
A : 漆器は油汚れに強く、軽い汚れであれば湯でさっと洗うだけで十分です。
油をしっかり使った料理の後も、中性洗剤で洗えばきれいになります。
水切れもよく、さっと拭くだけでは水滴は残りません。
拭くほど艶が増すのも漆器の魅力。
毎日使用するものは直射日光の当たらない棚などにおきます。
また,陶磁器や金属などの食器とは重ねないようにしてください。
ときどき使う漆器は,薄い布や揉み紙の袋で包み、箱に入れ、冷暖房や直射日光のあたらない場所に保管します。
また、しまいっぱなしにすると乾燥しかえって痛みますので時々使ってあげましょう。
使った後に洗うことによって水分が補給され長持ちします。
しっかりと正直につくってある漆器は丈夫ですし,そう神経質になることはありません。
人間が普通に生活できる温湿環境であれば大丈夫だと考えてよいでしょう。
Q : 漆器は消耗品…
A : ●日常使う汁椀・箸など
汁椀・箸などは消耗品です。
何年か使いますとツヤ落ちや塗り剥げいたします。
年が改まる正月などに、新しい汁椀・箸に買換えますと気分も新たなものとなります。
また、長年使い込んだ商品で愛着がございましたら修理を検討してはいかがですか。
●使用頻度が少ない正月用品
重箱・屠蘇器などは正月にご利用いただいて、傷や隅割れに気付くものです。
今後とも末永くご使用いただくには、早めの対処が必要です。
ご相談をお待ちしております。
Q : 漆器を洗う…
A : ●手洗いか食洗機対応であるかを確認してください。
手洗いでないといけない商品は集中的にお湯を当てて洗う食洗機に入れますと、その部分だけ剥げたり、白くなってしまいます。
●洗剤の選び方
漆はその成分の中に脂分を含んでいます。
ですから逆に脂分などの汚れは付きにくく、落ちやすいです。
一般的な植物性の中洗剤でご利用ください。
Q : お箸のお手入れ方法…
A : 箸を傷めずに長持させたい場合は「食器洗浄機を使わない」「つけ置きをしたり、きつく洗ったりしない」「日陰に収納する」の3つを守りましょう。
まず、食器洗浄機の場合、中に入れると木や漆がびっくりして、暴れや狂いを起こす原因となってしまうので気をつけましょう。
それからよく箸の先に米粒が付着することがありますが、ぬるま湯に数分浸けておくか、食事の前に箸先を水で濡らすことで付着を予防できます。
また、日の射すところに箸を置いておくと、漆や蜜ろうが紫外線を吸収して変色することがあるため、日陰に収納するようにしましょう。
Q : 竹製品の取扱い方…
A : ●湿度の高いところで長時間放置すると、カビが生えることがあります。
白カビなど表面にうっすらと生えたものは、すぐにふき取り、洗浄すれば問題ありません。
一方、青カビ・黒カビなど繊維に入り込むタイプのカビは、一旦発生すると落ちませんのでご注意ください。
カビを防ぐには、毎日使っていただくことが一番です。
そうすればカビの胞子が表面に付着することがありません。
しばらく使用しない場合は、適度に乾燥させ風通しの良い場所で保管し、たまに水通ししてください。
●極度に乾燥すると割れる可能性がありますので、ご注意ください。
割れないようにするため、定期的に水通しして極端な乾燥を防いでください。
●竹や木製品は、製作当初は素材のにおいがあります。
お使いいただくうちに徐々ににおいはなくなりますが、早くにおいをなくしたい場合は、米のとぎ汁などで何度か時間をおいて洗ってください。
だんだん気にならなくなります。ぜひお試しください。
Q : 村上木彫堆朱の保管のしかた
A : 村上木彫堆朱の完成直後の塗面は艶消処理のためほとんど艶がなく、漆特有の成分のため幾分くすんでおりますが、次のことに注意してお使いいただければ村上木彫堆朱独特の美しさを発揮してまいります。
●彫面にほこりがはいりますが、こういった時には、やわらかい洋服ブラシでほこりを取り、やわらかい布(木綿)でもう1回拭いて下さい。
●1ヶ月に1回位、やわらかい布で表面を軽くなでて下さるだけで朱色のつやが出ます。
●茶托、銘々皿、菓子器、会席膳、重箱、お盆などは、お使いになった後、水又はぬるま湯で汚れをとり、そのあと乾いたやわらかい布で拭き取って下さい。
●花びんの中の落し金に水を長くいれっぱなしにしておきますと中の水がくさり落し金に穴をあけ水もれの原因になりますので水は4日〜7日に1回位こまめに取り替えて下さい。
Q : 曲げわっぱのお手入れ方法…
A : 曲げわっぱは電子レンジの使用ができません。
熱を加える事によって、焼け焦げる場合がありますし、変形の原因にもなりますのでご注意下さい。
お櫃を はじめに使う場合、木が乾燥しているのでご飯が付きやすいので、内側を水で濡らし、その後水分 を拭き取ってからご飯を入れてください。
また、徳利、酒器等に熱い物を入れても大丈夫です。
お酒ですと熱燗にしてから容器に入れて下さい。
Q : うるし(漆器)とは… 
A : 漆はうるしの木等から採取した樹液を加工した、ウルシオールを主成分とする天然樹脂塗料です。
はるか縄文時代から塗料や接着剤として使われてきました。
現在では、国産の漆の生産量はごく僅かで、大半を中国から輸入しています。
漆を塗った器は、安全性・堅牢性・耐熱性にすぐれた食器として、長く日本人の生活に親しまれてきました。
また、蒔絵などの装飾を施した漆工芸品は、世界中の人々から絶賛される日本の代表的な工芸美術品として知られています。
Q : カシュー塗とは… 
A : カシュー塗料の元、カシュー樹脂は”カシューナッツ”の殻から搾りだした油が原料です。
”カシューナッツ”はカシュー塗料の原料を含む殻に守られてカシューの樹に育つのです。
カシューの樹は漆科の植物ですが、その油は漆のようにカブレることはありません。しかし、その油を原料とするカシュー塗料は漆に似た性質を持ち、高樹脂分のためふっくらとした肉持ち感があり、光沢あふれる塗膜は一見漆と見分けがつかないくらいです。
漆器の歴史
 

漆器は、中国でおよそ4,000年前に食器として使われた記録があります。
日本では、石器時代に矢じりの接着に漆が使われたものや、土器などに彩漆をほどこしたものなどが発見されています。
日本最古の漆器は北海道の南茅部町の垣ノ島B遺跡から中国の物を大幅に遡る約9,000年前の縄文時代前期の漆器が見つかっております。
又、日本最古の漆の木が発見されたのは福井県若狭町にある約12,000年前の縄文時代の遺跡『鳥浜貝塚』です。

  1.会津漆器
  会津の地に本格的に漆工芸が根付いたのは、天正十八年(1590)豊臣秀吉の命を受けて会津の領主となった蒲生氏郷公が産業として奨励したことによります。氏郷公は前の領地であった日野(滋賀県)から木地師(きじし)や塗師(ぬりし)を呼び寄せて先端技術を伝授させます。これによって会津塗の技術は飛躍的に進歩を遂げ、漆の栽培から加飾(かしょく)までを一貫して手がける一大産地となっていったのです。江戸時代には会津藩の藩祖・保科正之(ほしなまきゆき)公が漆の木の保護育成に努め、また歴代藩主が技術革新に熱心に取り組み、中国・オランダなどへも輸出され、隆盛を迎えます。
しかし、幕末の戊辰戦争(ぼしんせんそう)において会津漆器は壊滅的な打撃を受けてしまいます。戊辰の戦火によって焼け野原と化した会津の復興は、会津漆器の復興でもあったのです。明治の中期には、会津は日本有数の漆器産地としてその名を再びとどろかせるに至っています。四百年という時を超えて生き抜いた伝統の技の上に、常に最新技術を積極的に取り入れ会津漆器は現在まで成長を続けています。(会津漆器協同組合資料)
  2.高岡漆器
  高岡漆器は今から385年前の慶長年間、町人工芸として歩み出しました。その後、明和年間(1770年頃)に中国風の漆器を手本とした、唐草模様の盆や重箱などがつくられ、高岡漆器に新しい分野が開かれました。この技術は、国の重要有形民俗文化財に指定されている「高岡の御車山」に見ることができます。
幕末から明治にかけては、風景や人物、模様などを錆絵で描き、これに青貝とろう石をまじえた「勇介塗」が生みだされました。
また、明治中期に創案された「彫刻塗」は鎌倉時代の格調をもつ技法として独自の味わいをもっています。これらの技法をもとに盆類、茶道具、室内調度品など多岐にわたる製品づくりが行われ、昭和50年には国の「伝統工芸品」の指定を受けています。(高岡漆器資料)
  3.山中漆器
  山中漆器は安土桃山時代の天正年間(西暦1573-1592)に、越前の国から山伝いに、加賀市山中温泉の上流約20kmの真砂という集落に諸国山林伐採許可状を持った木地師の集団が移住したことに始まります。
その後、山中温泉の湯治客への土産物として造られるとともに、江戸中頃からは会津、京都、金沢から塗りや蒔絵の技術を導入して木地とともに茶道具などの塗り物の産地として発展をしてきました。(山中漆器資料)
  4.越前漆器
  越前漆器の起こりは、約1500年の昔にさかのぼるといわれています。
古墳時代の末期にあたる6世紀。第26代継体天皇がまだ皇子のころ、こわれた冠の修理を片山集落(現在の福井県鯖江市片山町)の塗師に命じられました。
塗師は、冠を漆で修理するとともに黒塗りの椀を献上したところ、皇子はその見事な出来ばえにいたく感動し、片山集落で漆器づくりを行うよう奨励しました。
これが今日の越前漆器の始まりと伝えられています。(越前漆器資料)
  5.飛騨春慶
  飛騨春慶のはじまりは、およそ四百年前の慶長年間に、高山城下で社寺の造営に当たった名工高橋喜左衛門が、たまたま打ち割った木目の美しさに心打たれ、これを蛤盆に作り、第二代高山城主金森可重(ありしげ)の子、重近(金森宗和)に献上し、御用塗師成田三右衛門に透き漆で塗り上げさせたところ、その色目が加藤景正の名陶「飛春慶の茶入」に似通っていたところから「春慶塗」と名付けられ、将軍家に献上されたと伝えられています。(高山行政情報資料)
  6.香川漆器
  藩政時代、殿さまの奨励と支援を受けた工業や文化は、今日まで永く受け継がれています。香川県では漆器の伝統技法などがその類です。香川の漆器は歴史の古さよりも、質も量も旧藩の保護と理解のもとに発展し、幾多の名工を生み、巨匠をだしています。
そして、昭和24年には商工省から重要漆工集団地として指定され、また51年2月には、漆器のうち「蒟醤、存清、彫漆、後藤塗、象谷塗」が四国では初めて国の伝統的工芸品の指定を受けました。古来、香川は芸術的な環境と天分に恵まれていたとはいえ、漆器をこれほどまでに開花させたのはやはり茶や花を愛した殿さまのおかげでしょう。寛永15年(1638)水戸の国から松平頼重公が高松へ入封、漆器や彫刻をすすめ、名工を育てたが注目されるのは玉楮象谷であります。
 玉楮象谷は、文化3年(1806)、高松市の鞘塗師、藤川理右衛門の長男として生まれ、20歳で京都へ遊学しました。京都では塗師、彫刻師、絵師らと交友を深め、豪放磊落、多彩な才気にみちた象谷翁は、明時代の存清、蒟醤、紅花緑葉など中国伝来の漆塗技法の新しい分野を開拓しました。象谷翁は、明治2年64歳で亡くなるまで3代の藩主に仕え、今日の漆器の始祖といわれるすばらしい作品を数多く残しています。
また、高松藩士、後藤太平は、渋味のある漆塗柄を研究し、下絵についた塵の文様にヒントを得て、のちに"後藤塗"といわれる塗手法を創案しました。これらの大先輩によって、開発完成された香川の漆器の伝統を継承し、さらに発展の功労者としては、重要無形文化財蒟醤技術保持者になった故磯井如真や故音丸耕堂(重要無形文化財彫漆技術保持者)の活躍など、多くの巨匠を育ててきました。(香川県漆器工業協同組合資料)
  7.紀州漆器
  紀州漆器(黒江塗)は、和歌山県海南市の北西部「黒江地区」を中心に生産されています。
会津塗(福島県)山中塗・輪島塗(石川県)などと共に全国三大産地の一つです。
紀州漆器の歴史としては、室町時代紀州木地師によって渋地椀が作られたのが始まりだといわれています。これに加えて、現在の那賀郡岩出町にある根来寺で、僧侶達が寺用の膳・椀・盆・厨子などの什器を自ら作ったのも紀州漆器の起源の一つといえるものです。
根来寺に始まったこれら一連の塗物が、即ち「根来塗」といわれるものです。
黒漆で下塗りをし、その上に朱塗を塗ったところ、未熟練の僧侶の手によったものであるため、使用中自然に表面の朱塗りが磨滅して下塗りの黒漆がところどころ露出しました。それがかえって趣あるものとして喜ばれたものです。
その後、秀吉が根来を攻めた際、難を逃れた僧が、その技術・技法をもって海南市で漆工に従事したことから広まり、徳川中期頃は、紀州藩の保護のもとに相当盛大なものとなりました。
文政九年(1826)小川屋長兵衛なる工人が堅地板物の製作に成功した、安政時代には蒔絵による加飾がなされるようになりました。このようにして発達してきた紀州漆器も明治維新の廃藩置県により紀州藩の保護を失い衰退するかに見えましたが、明治3年本格的な貿易を開始したことにより次第に回復し、明治12年他県産の沈金彫の技術を導入、また明治31年には京都より蒔絵師を招いて蒔絵の改良を図りました。
昭和にはいり、天道塗、錦光塗、シルク塗などの変り塗が考案され、紀州漆器の特長を一段と発揮しました。
昭和24年重要漆工業団地として国より指定をうけ、さらに昭和53年2月通商産業省より「伝統工芸品」として「紀州漆器」が指定されました。(紀州漆器協同組合資料)
  8.輪島塗
  輪島塗の起源にはさまざまな説がありますが、現存する最古の輪島塗は河井町にある「重蔵権現本殿の朱塗扉」で、室町時代の大永4(1524)年の作といわれています。
漆器の技法そのものは縄文時代にまでさかのぼることができます。
長い時間をかけ、幾世代にもわたって受け継がれてきた技。
しかし、それはたんに伝統を守ることだけにとどまりません。
創意を重ね、技を磨き、つねに進化と深化を続けてきたのです。
たとえば、「輪島地の粉」の発見。
これは珪藻土の一種を焼いて粉末にしたもので、漆に混ぜることで頑丈な下地がつくれるようになりました。弱くなりがちな所に布をかぶせる「布着せ」という手法も生みだされました。
こうして、輪島塗ならではの「優美さと堅牢さ」を支える、本堅地法とよばれる工法が完成したのです。
江戸時代に入り、享保年間には沈金の技術が確立。さらに文化文政の頃には蒔絵の技術が伝わり、「暮らしの中で使う道具であると同時に、ひとつの芸術でもある」という輪島塗ならではの価値が確立していきます。
つねに、より美しいもの、よりよいもの、より優れたものを求める。
その強い意志を持つ人々が価値を高め、磨きあげてきた輪島塗の歴史。
時を超える価値は、時を超えて磨かれてきた技から生まれます。(輪島漆器商工業協同組合)
  9.村上堆朱
  村上は古い城下町です。
村上地方の漆枝は今から600年前、京都から寺院建築に来た漆工が始めたと伝えられています。
その後、慶長(約380年前)以来、歴代藩主は、これを奨励し、寛文年間(約320年前)には漆奉行が設置され、漆樹栽培が一段と活発になりました。
亨保年間(約260年前)には現在の木彫堆朱・堆黒が生産され、文政の頃には江戸詰の村上藩士、頓宮次郎兵衛は堆朱彫の名工、東谷について彫刻を学び、次いで沢村吉四郎にも学び、堆朱彫は藩内に広められて漆塗の技と共に次第に進歩発達して、名工有磯周斎が輩出しております。
周斎は本堆朱の他に存星(中国の漆芸の一技法で、わが国では四国高松市で作られている)も研究し、或は中国風の図案に写生を加味して品位の向上を図り、或は鎌倉彫の彫法を取捨して改良するなど技術の進歩をなして、今日の村上木彫堆朱の基礎を築きました。
その後、村上堆朱業界に幾多の変遷はありましたが落ちついた高雅な持味は変わることなく愛好者を満足させ乍ら、時代の感覚にマッチした製品の製作に日夜励んでおります。(村上堆朱事業協同組合)
  10.若狭塗
  寛永11年(1634年)若狭の国に赴任した酒井忠勝が『若狭塗』と命名し、同時に藩を挙げて手厚く保護奨励しました。
その惚れ込みようは、酒井家秘宝の漆芸とするだけでなく、他藩への技術流失を禁止したほど。承応2年(1653年)忠勝は塗師三十郎と木地師に、およそ7ヶ月間もの長期間、江戸表で細工をさせたとか。
いわばこれは、天下に若狭塗を広めるためのデモンストレーション。
この時の三十郎への褒美は銀2枚米納五俵ですが、万治2年(1659年)には扶持米を与えられるまでになりました。
また、若狭塗は小浜藩の御用塗師「松浦三十郎」が支那漆器の一種存星をヒントに、海底の様子を意匠化して考え出したのがはじまりです。
江戸中後期にかけては若狭塗の黄金時代で、箔押し研出し技法(青貝・卵殻)、螺鈿以外にも蒔絵の技法も併用され、200種以上にも及ぶ塗手法が完成されていたと言われています。(若狭塗箸協同組合)
  11.津軽塗
  津軽塗の成立は江戸時代中期、弘前藩第四代藩主津軽信政公(1646〜1710年)の治世にさかのぼるとされる。
この時代、徳川氏による大名の国替も一段落し、政情は安定して各藩の商工業も徐々に発展していく様相を見せた。また、寛永19年(1642年)に成立した参勤交代の制度と、それに伴う街道整備により流通が発達し、上方(京都・大阪)や江戸の文物が地方に伝播していくようになった結果、各藩がそれぞれの地域の産業を保護奨励するようになり、この時期日本全国で多くの工芸品が誕生し、普及・発達し始めた。
信政公も津軽の産業を育成するため、全国から多くの職人・技術者を弘前に招いた。
延宝4年(1676年)頃には、既に弘前城内の一角に、塗師の作業場があったことが、当時の図面により明らかにされている。
また、 明治6年(1873年)に開催された、ウィーン万国博覧会には、青森県が「津軽塗」の名前で漆器を出展し、賞を受けている。「津軽塗」という名前が一般的となるのは、ここからである。その後、大正時代まで津軽塗産業は大衆化を推し進め、生産量/販売額を増大することに成功する。(青森県漆器協同組合 )
  12.秀衡塗
  秀衡塗は、平泉町に栄華を極め、中尊寺金色堂をはじめとする仏教美術をこの地にもたらした奥州藤原氏にその起源を発しています。
現在では発掘により工房が存在したことも確認されていますが、藤原氏滅亡以後数百年の歴史は未だ定かではありません。
江戸時代後期からは平泉町隣村の衣川村で漆器が盛んに製造されていましたが、昭和30年の衣川ダム建設によって全国でも異例の産地分裂となり、現在に至っています。
秀衡塗は、菱形の金箔を使い漆絵でデザイン化した草花を描いてある秀衡文様が特徴で、素朴ながら華麗な味わいを見せます。
堅牢な本堅地下地を用い、加飾は当時に伝わる時代椀である「秀衡椀」を模範に有職菱文様が描かれます。
この地方は、漆と金の特産の地でもあったことから、金箔を用いた造りが受け継がれ、朱と黒と金の基調の中に春秋草花紋が配された、光沢を抑えた仕上が漆本来の美しい艶を味わうことができ、使う人の心をなごませてくれます。(東北経済産業局ホームページ)
  13.川連漆器
  鎌倉時代(1193年)、源頼朝の家人で稲庭城主の小野寺重道の弟、道矩(みちのり)公が古四王野尻(現在の川連町大舘地区)に館を築き、家臣に命じて刀の鞘(さや)、弓、鎧などの武具に漆を塗らせたのが始まりとされています。
本格的に漆器産業が始まったのは17世紀中頃、元和(1615年)から元禄にかけてであり、川連村を中心に約26戸が椀師稼業を営んだとの記録が残っています。
文化12年(1815年)、藩の許可を得て朱塗りの漆器をつくり販路を他国にひらき、江戸時代後期には藩の保護政策のもとに、椀、膳、重箱など幅広い漆器がつくられるようになり、沈金、蒔絵などの飾りが加わって、産業基盤をさらに大きく築きあげていきました。
明治には新しい技術開発がおこなわれ、昭和51年には国の伝統的工芸品に、平成8年には県の伝統的工芸品にも指定され、平成10年、平成12年の全国漆器展では内閣総理大臣賞を受賞いたしました。
堅牢さを誇る実用的な生活用品として庶民生活に密着し、今日、川連漆器は地域の主要産業となっています。(秋田漆器工業協同組合)
  14.大館曲げわっぱ
  大館曲げわっぱは、木こりが杉柾で曲物の器を作ったことに始まったとされています。
藩政時代に大館城主佐竹西家が領内の豊富な秋田杉に着目し、武士の内職として推奨しました。
農民には年貢米の供出代替として、山から城下まで原木を運搬させたといいます。
製品は酒田・新潟・関東などへ運ばれました。江戸時代末期から近代にかけて職人たちが技法を受け継いできましたが、プラスチックの出廻り等により他産業への転向が相次ぎました。
現在の本物志向の風潮に相まって、大館の曲げわっぱは、多くの人に愛されています。(大館曲げわっぱ協同組合)
  15.金沢漆器
  金沢漆器は3代藩主 前田利常(としつね)が京都から招いた蒔絵の名工・五十嵐道甫が技術を伝えたのが始まりで、前田家によって育て上げられたいわば貴族的な工芸でした。
金沢漆器には蒔絵、卵殻、平文など漆器の加飾技術がすべて伝えられており現在においても量産というより、むしろ一品制作の美術工芸品を主とした茶道具、調度品、高級家具などが制作されています。
また、鞘塗りとして知られる変わり塗りも多彩であり、紗のめ塗、置霜塗などは、技術の高度さなど金沢漆器特有のものとして評価を得ています。(金沢市観光交流課)
  16.木曽漆器
  木曽漆器の本場となっている旧楢川村(塩尻市)は木曽谷を貫く中山道(現・国道19号線)の北の入口に位置し、海抜およそ900メートルの高地にあります。
このため夏は涼しく冬は厳しく寒いという独特な気候は漆を塗る作業環境に良く、自然豊かな大森林は良材を育み、交通の面でも主要道路が通っているという風土と要路の二つの好環境に恵まれて400有余年という時間を費やして私たち先人が試行錯誤を経て輝かしい成果を残しそれを継承して今日に至っております。(木曽漆器協同組合)
  17.別府竹細工
  別府竹細工の起源について、「日本書紀」の記述によると、人皇12代景行天皇が九州熊そ征伐の帰りに別府に立ち寄った際、お供の膳伴(台所方)が、良質のシノダケが多いことを発見し、メゴ(茶碗籠)をつくったことがはじまりとされています。
本格的に工芸品として扱われるようになったのは室町時代からだとされ、行商用の籠が販売のために生産されるようになり、竹細工の市場が整備されていきました。
江戸時代に入ると、日本一の温泉地別府の名が全国に広がり、各地から別府へ湯治客が集まるようになりました。
そして湯治客が滞在中に使用する飯籠、米あげ笊(ざる)といった竹製の生活用品が売られるようになりました。
竹製品は湯治客の土産品としても好評で、需要の増加と共に竹細工市場は拡大し、別府に地場産業として定着していきました。
明治に入り、別府竹細工は土産品の域を越え、高度な技術を集約した工芸品へと発展していきました。
明治35年には竹工芸近代化のための技術者育成を目的とした、別府工業徒弟学校(現 大分県立大分工業高校の前身)が別府、浜脇両町により創立されました。
徒弟学校には、将来性を見込んで全国から多くの竹職人が集まり、今日の優れた製造技術の蓄積、発展の礎を築いていきました。
昭和13年には大分県工業試験場別府工芸指導所(現 大分県竹工芸・訓練支援センターの前身)が大分県により設立されました。
そして今日においても、日本で唯一の竹工芸の専門訓練校として、多くの技術者を輩出し続けています。 (別府市竹細工伝統産業会館)
  18.京漆器
  奈良時代、唐から伝えられた漆技を基に、日本独自の美的感覚で漆工技術を確立しました。
この技術は、平安建都とともに京都に受け継がれ、蒔絵(まきえ)の技法が発達しました。
以来、京漆器は、各時代の風潮を反映し、室町時代には、茶の湯と結びついたわび、さびの内面的なあじわい深さを感じさせる「東山時代物」が登場しました。
安土桃山時代には、新興武士階級の好みを代表するような華麗な「高台寺蒔絵」、町人文化の栄えた江戸時代には、本阿弥光悦(ほんあみこうえつ)、尾形光琳(おがたこうりん)などが豪華・緻密な意匠様式を残してきました。
特に、工芸の各分野において、卓越した才能を発揮した本阿弥光悦は、金蒔絵に金銀貝、青貝などを配した光悦蒔絵と呼ばれる斬新な感覚を表現し、元禄期に現れた尾形光琳にも大きな影響を与えました。
光琳派の技法は、琳派(りんぱ)と呼ばれ、現代にまで受け継がれ、京漆器はもちろん諸工芸、インテリア、建築など各種デザインに影響を与えています。
京塗(きょうぬり)、京蒔絵とも呼ばれる京漆器は、最高の素材の選択、お膳や重箱の角などのくくり錆(さび)という特別 な手数をかけた工程や独自の装飾技法の確実な踏襲、そして洗練された美意識において、特に高級品分野では他産地の追随を許しません。
優雅なデザインと器物の強さ堅さ、平面の美しさ、かどの切立の美しさ、その繊細な仕上がりが特徴です。(京漆器工芸協同組合資料)
  19.奈良漆器
  わが国を代表する漆器工芸は、仏教伝来を契機とした天平文化とともに花開き、漆で絵を描いたもの、螺鈿、金銀平脱、平文など多種多様な技法を自由に駆使して、目の覚めるような美しい器物を残しています。
おそらく、直接器物を輸入すると同時に、工人を中国から招いて製作にあたらせ、日本人に伝習させたのでしょう。
そのころの数多くの作品が、正倉院に収められているので、奈良は、日本の漆器の発祥の地といわれています。
中世になって、塗師・漆屋座が登場します。
南都に住んで、社寺に所属し、建造物の塗師として活躍しながら、器物としての漆器も制作していました。
また、茶の湯の発展とともに、茶道具関係の塗師に名人上手が現れ、江戸時代には、武具の塗師を職業とする人もいました。  その後、明治に入って奈良博覧会会社が設立され、正倉院宝物や社寺の什器がはじめて公開された明治8年の第1回博覧会の開催によって奈良の漆工達は大いに啓発され、これらの模写事業を興して、工芸品としての奈良漆器の復興がはかられました。
なかでも、螺鈿塗の技法は、奈良の独壇場です。(奈良市観光経済部資料)
  20.琉球漆器
  沖縄は昔から中国漆器の技法を取り入れ、もっぱらその習得につとめてきましたが、特に1609年(慶長14年)以来薩摩に支配されるようになってからは、施政上の立場から当時の琉球王府が直営としての貝摺奉行所(漆器製作所)を拡大強化し、漆器の生産に力を入れました。
生産品は中国風に出来ており、将軍家への献上器、諸大名への贈答品、あるいは民間交易品として珍重されるようになりました。
又こうした漆器は次第に貴族階級の生活の中に取り入れられ、宮廷舞踊や冊封使のための重要な什器としての役割も持つようになりました。
漆器の最も古い記録によりますと、1427年(応永34年)明の皇帝宣宗が琉球から漆を購入させたとありますが、沖縄ではこの頃から既に漆の技法があったようです。
その後 1879年(明治13年)廃藩まで幾度か工匠を中国に派遣、「螺鈿」「沈金」「箔絵」その他さまざまな技法を学んでいます。とりわけ1715年(正徳5年)比嘉乗昌が中国の素朴な加飾法から高肉の華麗な加飾法を編み出し、これが今日琉球漆器を代表する「堆錦」であります。
ロクロは1629年(寛永6年)に薩摩大隈の人から伝えられ、これが塗師となって住みついた若狭村(後の那覇市若狭)が廃藩置県後琉球漆器生産の中心地となりました。(那覇市伝統工芸館)
  21.樺細工
  樺細工の産地旧角館町は、秋田県の中央、仙北平野の北部に位置し、清流玉川と桧木内川に挟まれた城下町としての藩政時代はもとより明治以降においても政治経済の中心地であった。
角館の樺細工は、天明年間(1771〜1788年)俸禄だけではとても生きられなかった下級武士の手内職として始められた。
天明の頃は、大凶作、飢鐘の時代でもあり、藩を挙げて殖産興業に励む経済力もなく、元手のかからない自生する近在の山桜の樹皮を剥いで細々とつくられていた時代であった。
角館の樺細工は、こうした下級武士の困窮に育まれたと言っても過言ではない。
その後、紆余曲折の時を経て現在従事者約三百名、年間生産額十数億円、角館の基幹産業に成長してきた。(秋田県漆器協同組合)
  22.浄法寺塗
  浄法寺塗は中世に岩手県北部を支配していた豪族「浄法寺氏」の名前に由来しており、地名にもなりました。
土地の伝承によれば、神亀5年(728年)行基がこの地に天台寺を建立した時中央から僧侶が派遣され、自家用の什器を作るために漆工技術も伝えられました。 藩制時代には南部藩の重要な産物として天台寺周辺から旧安代町付近まで産地を拡大し、「御山御器」の名前で知られ、現在の産地の基礎となっています。
製品は、日常使用される汁椀・飯椀・片口のほか時代椀には、加飾の入ったものもあります。その殆どが、無地の本朱・黒・溜色による光沢を抑えた単色の仕上げとなっており、最大の国産漆生産地である良質の原材料を用いた飽きのこない柔らかな艶の質感に仕上げたのが大きな特徴です。
製品には、菱形の金箔を使い漆絵でデザイン化した草花を描いてあります。(岩手漆器工業協同組合)