江戸時代から現代まで、江戸東京みやげは大量に作られていますが、ますます評価の高まる浮世絵の他は、あまり保存されることはありません。ところが、当館には浮世絵はもちろん、浅草海苔の包紙・千代紙・うちわなど、江戸時代から明治時代のものが多数保管されています。収集品ではなく、届けられたままの状態を保っていますので、今回の展示から江戸東京の雰囲気を感じていただけると思います。
○浅草海苔 浅草海苔の始まりについては諸説ありますが、いずれも確かなものではありません。紙のように加工された浅草海苔については『江戸砂子』(享保17年・1732)に「今は品川海苔を当所(浅草)にて製す」とあって、その頃までに品川産の海苔が浅草で加工されていたようです。しかし、やがて浅草ではされなくなり、江戸時代後期には加工も品川・大森でされていました。
○海苔の包紙 喜田川守貞の『守貞謾稿』(天保8年~慶応3年・1837~1867)に浅草海苔について記事があります。浅草海苔は品川大森で生産され加工されているが、浅草海苔と俗称されていると述べ、品川大森の店の看板を説明した後に、包紙について「鞠御紋を描き・・・新干海苔と書し左右に地名屋号を記す。近年其包を精にし、四方包とし四ツ手と唱ふもの多し。江戸にて売るも看板包紙其他皆然り」と記しています。本館には二百点以上の浅草海苔の包紙が保存されていますが、ほとんどは四ツ手であり、江戸後期以降のものです。菊御紋があるものは、明治になって菊御紋の一般での使用は禁止されるので、それ以前のものとなります。
○海苔の実物 江戸時代には、浅草に海苔店が多く、中でも幕府の御用を勤める永楽屋が有名でした。永楽屋の明治初期の包紙二点には、それぞれ一枚の海苔が残っています。明治10年に来日し、東京大学で教鞭をとったエドワード・モースが米国に持ち帰ったコレクションの中に、現物の浅草海苔が数枚残っていますが、日本国内に残っている例は当館のものしか知られていないと思います。
○山形屋 明治になって、海苔店の中心は浅草から日本橋に移ります。日本橋釘店(くぎだな)で現在でも営業している山形屋は、同店のホームページによると、創業は明和元年(1764)で、10数年後に釘店に移ったそうです。菊御紋のある山形屋の包紙には、絵入の包紙が伴っています。海苔を絵入の包紙に包み、それを四ツ手の包紙に包んでいたようです。 菊御紋が使用できなくなると、やがて山形屋の包紙には博覧会などでの受賞メダルが描かれます。メダルが二個のものと四個のものがあり、二個のもののメダルの年号は明治9年と10年、四個のものは14年と16年のものが追加されているので、メダル二個の包紙は明治10年から14年のものと判断でき、四個のものは明治16年以降、それに近い頃のものと推定できます。
○ラベル 包紙ではなく、ラベルに四個のメダルを描いたものがあります。モース・コレクションの海苔は、それが入っていたブリキの缶も残っていて、それに貼られたラベルと当館のラベルは似ているので、ブリキ缶のラベルと推定でき、メダル四個なので、包紙の例から明治16年以降、それに近い頃のものと推定できます。ラベルはもう一点、メダルの無いものもあります。それには東京を「TOKEI」と表記していて、「TOKYO」と表記したメダル入りのラベルよりも古く、ブリキ缶か桐箱のラベルではなかったかと推定しています。
○山本徳治郎店 現在も室町一丁目で営業している山本徳治郎店は、同店のホームページによると嘉永2年(1849)に、現在と同じ場所で創業されたそうです。山本徳治郎店の包紙には、「告條」と記した引札を刷り込んだものが二種あります。電話番号の入っていないものは、電話サービスが始まる明治23年より前のものと推定できますが、品目にはブリキ缶入りや瓶詰めがあり、新しい時代を感じさせます。
○江戸店からの土産(みやげ) 海苔店のものではない包紙が一枚あり、「御献上 新海苔二百枚 本町店」と書かれています。本町四丁目にあった柏屋の江戸店の従業員が、京都の主人に献上した土産の包紙と分かります。これによって、一回二百枚単位で、海苔と包紙は別にして運ばれ、京で包まれ、その余りの包紙が残ったものと推定できます。
○江戸土産 柏原家の記録『永代帳』には江戸土産が四度記録されています。いずれも七代目の主人が江戸に行った帰りの土産ですが、初めの二度は孫左衛門を襲名する以前のものです。浅草海苔は四度目の文化九年(1812)に初めて現れ、三井八郎右衛門に桐箱入りの二百枚、他の二人に三十枚ずつ贈ることが記録されています。
三度目までのメインの土産は「真岡木綿」「上田嶋」「府中細工」といった江戸周辺の特産物で、それらの添え物として「江戸絵」「錦絵」「紅絵」が記録されています。江戸の浮世絵が一般的に土産となっていたことは『東海道名所記』(寛政9年・1797)に記されています。その巻六には絵草子屋の店先が描かれていますが、解説に「江戸絵はこの地の名物にして」「海内これを賞して土産の第一とす」とあります。
○江戸名所絵 木版多色刷の浮世絵は江戸の特産品です。浮世絵には役者絵、美人画とともに風景画がありますが、大都市江戸の街並みや賑わう姿が江戸土産となりました。歌川広重は江戸名所を多く描き、それは明治になって、歌川国輝や小林清親、そして清親の弟子・井上安治へと続きます。
○東京名所図 歌川広重の江戸名所絵、小林清親そして井上安治の東京名所絵と続いた伝統は、明治後期に綱島亀吉によって出版された東京名所絵へと受け継がれます。綱島が出版した東京名所絵は木版ではなく石版でしたが、綱島は二代目で、初代は月岡芳年などの浮世絵を出版した版元であり、やはり浮世絵の伝統を感じさせます。
○千代紙 浮世絵の木版多色刷の技術は、千代紙に応用され、江戸千代紙は江戸の特産品となります。当館には、名主印・年月改印・版元印がある千代紙が14種あり、幕末のものであることが分かります。版元印のうち名前が分かったのはひとつだけで、他のものは確認できていません。また、大きさが浮世絵とは違っていて、浮世絵の大判よりも少し大きいサイズです。当館の千代紙は、観賞用に収集されたものではありません。千代紙を裏表に張った包紙があり、部分的に切り取られた千代紙もあり、使用するためのものでした。
○団扇(うちわ)絵 団扇は各地で作られていましたが、木版多色刷の江戸の団扇絵は他ではマネのできないものでした。現在、美術品として扱われる浮世絵の役者絵、美人絵、名所絵が、団扇となって日常生活に溶け込んでいたとは驚きです。浮世絵団扇絵は明治になって衰えますが、大正期に今村紫紅などの先進的な日本画家を起用して、榛原からモダンな団扇絵が売り出されました。